スガキヤのラーメンは母の味

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幼少時代の暗い現実。

幼少時代、両親は共働きで祖母も働いていた。
祖父は不動産の連帯保証人になり逃げられ多額の借金を背負った。
そして、祖父はすぐに認知症になった。
私は幼すぎて記憶にないが、よく借金の取立てが来ていたらしい。
今思えばドラマの世界が現実で起こっていた。

借金の返済と祖父の面倒を見る為に父の兄弟を含め大人たちは皆忙しかった。
父の兄弟は結婚して実家から離れていき、8歳上の兄と私の2人だけの時間が長くなった。
兄には感謝している。
土日関係なく両親と祖母が働いていた為、幼少の頃の思い出は兄と遊んだ記憶しかない。
兄と私でお金を出し合い購入したスーパーファミコン桃太郎電鉄を喧嘩しながら徹夜でやり続けたのは良い思い出だ。

借金の返済が終わる頃に兄の大学への進学問題が出てきた。
兄は東京の大学へ進学したいと言い出した。
当然お金がなく散々喧嘩したあげく親戚からお金を借りて東京の大学へ進学し一人暮らしを始めた。
借金の返済は終わったが、兄の件と認知症の祖父の病態が悪化してきた事で認知症のケアが可能な老人ホームに入居したので祖母と両親は仕事を辞めるわけにはいかなかった。
どれぐらい認知症の病態が悪化したかというと夜中に徘徊するようになった。
朝目覚めたら家の中にいない。
何度か警察から連絡があり迎えに行ったが、まだそれは近所だから幸いだった。
老人ホームの入居を決定づけたのは警察から連絡があり居場所を聞いたら高速道路の上だった。
最初に聞いた時は悪い冗談かと思ったが、本当に高速道路の上だった。
当たり前だが家の内側にしか鍵がないので鍵の意味はないし、手足を縛るわけにもいかないので本当に打つ手がなかった。
老人ホームに入居してから少し病態は改善されたがそれでも自宅に戻せるほどではなく2年ほど経過した後亡くなった。
葬式は質素だったが親族一同集まり泣いていた。
だが私は泣けなかった。

ようやくスガキヤの話だが、上記の通り大人たちは忙しかったので食事といえば簡易的な物ばかりだった。
保存が利く料理が主だった。
祖父の病態が悪化するにつれて私も兄も成長していたのでお金を渡され2人で外食する機会が多くなった。
外食といっても当然大金ではない為外食する候補は限られていた。
そこでよくスガキヤへ行った。
たぶん週4ぐらいのペースでスガキヤに行っていた。
『いつもの』で通じるほどだった。
今でもラーメン好きなのはこの影響だと思っている。
厳密にいうと母の味なんてものはない。
ただ幼少の頃に食べた味で覚えているのはスガキヤのラーメンぐらいである。
美味しいかマズイかより生きていく為に食べていた義務感みたいなものがあった。
今思えば外食なんてするより自分達で調理すればよかった。
さすがに調理器具ぐらいあったはず。
今ではその反動かわからないが仕事が休みの日は嫁に代わりによく調理をする。

元旦に実家へ帰省した時に食べたスガキヤのラーメンは最高に美味しかった。
たぶん兄と昔の事を話しながら食べたからだと思うが最高に美味しかった。
そしてスガキヤの即席麺を無意識の内に購入して我が家へ帰るのであった。